昭和39年12月6日  朝の御理解

 ここ10日ばかりですけれども、ある問題と言う程しの事でもないですけれども、まあ、ちょっとした問題なんです。「ウ-ウン」心に掛かっておる事がある神様に御願いさして頂いたら梔の実を頂いた、梔と言うむくな小さい木が「ア-ア」くちなしだからもう言うな言うなと神様が言うことだと「無口」言うなと言うことだなと、そうゆう事を、お知らせを頂いてから10日間余りになる、けれどもやはり心にかかっておる事ですから、その事を御願いさして頂いておったら、今度はくちなしの花を頂いた。白いこう花があるネですからそれを理解付けたらどうゆう事になるでしょうか。一つの心にかかっておる「まあ」難儀と言う訳でもなかなければ問題と言うほどしの事でもないけれども、心にかかっておる事が神様に御取り次ぎを頂いて御願いさしてもろうた。
 そしたら、言うな言うなと言わずにおけ、だから言わずにおるけれどもやはり言わすにおる事が心にかかっておる、もう10日にもなるその事、今朝また、かからさして頂いておったら、くちなしの花を頂いた。「それで」私が思わさして頂いた「ハア-」なるほどくちなしにも花が咲くと言う事である。
言わんでおっても、ちゃんと、おかげになるぞとこう、そして、初めて自分の心の中にスッキリするものが頂ける。そのスッキリする心がおかげを頂く元なんですよネ。
 皆さんも、でもそうでしょう。右だろうか、左だろうかと、とにかく御神意でも頂いてから、心、決めさして、頂こうというて、それは右ぞ、左ぞとこうおしてて頂くとですネ。
 そうゆう様な、おかげを頂いていくけれどもネ。これは決して信心が、育っていきよる訳でもなからなければ、信心が解っていきよる訳でもないんですよ。 そうでしょうが。
 本当にこうゆうありがたい神様を頂いておることは、ありがたいなあ-と言う事になる訳なんですネ。
 只、それだけでしょうが、そのスッキリする心に確かにおかげを頂けることも間違いないのですから、だからそうゆう事もおかげ、それもありがたい。
 けれどもネ、わたくしはネ、自分の心の中にです。その「オ-」本当の意味でのおかげの場、ここ二~三日頂いております様に、一時的なおかげではなくておかげを頂いたら、そのおかげがまた、次ぎのおかげを、生んで行く様な、おかげでなからなければならないと言う事。
 そうゆう、おかげと言うものがです。ゆわゆる、おかげの場と言うか最近言われております。
 そのお育てを頂かなければならない信心が育たなければいけない。信心が育つと言うことは、どうゆう様な事かと、私はある人が信心はさとりだと言う事を言われ、自分の心の中に私はこのおかげの場を広げていくことは、心の中を翻然として悟れだと思う、この辺、大事な所なのでようと頂かなければ、いけませんよ。今私が先き申しました様に、どの様な問題でも、御取り次ぎを頂いて、おかげを頂く、自分の心にかかわる問題でも神様が言うな、言うな神様が言うなとおっしゃるから言うな、なるほど、けど、なんとはなしに、やはり心にかかっておるけれどもそれをまた、思いだし頂いておると、言うなら「ア-」くちなしの花が咲くと言う御理解を頂くと「ア-」本当心がスッキリするそれもおかげなのです。
 やはり、けれども、これはです。おかげがまた次ぎのおかげを生んで行く様なおかげでない。このことだけでも、たいしたことですネ。樺目で、その、皆さん体験があるでしょうが、二~三日前でした。
 ある方が、単車をぜひ買うてくれと言うて来ておりますとこう言うどうさして頂こうかと、しばらく見合わせておけと、自分としても、12月差し迫るていく事ですし、少しでもお金出したくない。向こうからヤイヤイ言うて言う見合わせとけと言うて買いたくもありそしたら又、見えた今度、見えた時には、お金はいらなんけんとっといとくれと言われ又、お伺いに見えたそれならもろっとけ本当神様の御都合にはおそれいります。単車も手に入ったお金も出さんでよいそら出さんでもよい出さんでよいわけでは、ないですけど先の方でよいたとえば、そうゆうようなことでもたとえば単車一台買わさして頂くでも御神意を頂いていけば、万事万端の上にあれやら、これやらがおくり合わせの中に、おかげが頂いているでしょうが。 けれどもそのおかげが又、次のおかげになっていく様な、おかげと言うのは、そんなもんじゃないそれは、私くしは、心に翻然として悟らして頂く所謂信心が自分のものになると、言う事だと私は思う。
 昨夜の「ゴホンゴホン」(せきが出る)御祈念に御祈念の前に御祈念を頂かれ帰られたんですけど、田主丸から、初めての方がお参りして来た。
 なになに、生命保険の支店をしておられる所が今度まあ一つ段を上がる為試験がある訳です。
 所がその方は、実力者ではあるけれども学力がない。
 だから今度の試験が、それが出来るか出来ないか、あぶ、あぶまわれておる訳じゃそれで人に聞き伝えてから「まあ」神様に御願いすりゃよかと言うことでした。
 試験が出来ます様にと言うてお願いに見えられた。
 そしたら「神様からア-」重点を変えて頂けとこうゆう事を頂いた。
 例えば試験管の人がですネ。ほんに、実力本位で試験をするか学力本位で試験をするかと試験管の心一つである。
 重点を変えて頂けとこの人の時には学力をもって重点を置いたと、こういう「フフン」神様がそこの御働きを下さる訳なんですネ。
 ですから学力の事は、心配はいりませんと言うことだった。
「セキバライ」
 本当におかげを頂きます様に本当、おかげ頂きます様にどうぞよろしくお願いします。
 けれどその事を、おかげ頂いたと言う事だけが、言わば、御道では、おかげでないから、これから頂く、おかげの方が大きいと私くしに神眼を頂くのがもう小さい、小さい、小さい、これ以上かかえられない田主丸の、たて石を頂くんです。
 田と言うは、おかげの受け場ですネ。田と言うのは、田受けのですから種さえまけば芽も出る花も咲くとネ。
 もみをまけば米になると言う事ですよ。
 田受なしには出来ません。「もう」小さい、小さい田を頂いたそれから私は、その方に御理解さして頂いたこれから一つ「まあ-」ちょい、ちょい参っておいでとできるだけおくり合わせ頂いて参っておいで、そして、お話を頂く、御理解を頂くことを楽しみに参ってくる様になるとおかげになりますよ。
 御理解を頂くとですネ。もう自分達の今まで思うておったことが間違ってた事に驚くのですよと。
 「あ-」本当に、こうゆうことも自分は、間違っておった。こうゆう生き方では幸せには、なれないと言う事がわかってくる、お話を頂いておると、ところが、そうゆう事が分かっただけでは、おかげにならんのである。
 御理解を頂いて、なるほどそうだなと思うただけではおかげにならん。
 それは、分かっただけでは、おかげにならん。分かったら分かったようにそれを実行する分かったら分かった様にそれを行ずる。
 行ずるところから、翻然と開けてくるのが悟とりである信心は悟りと言われおる、それなんです。
 樺目の人達は分かっている人は分かっていきよるようですね。
 夕べ総年部会でそう言うておりました。「もう」本当にそう言っておりました。
 今の椛目で、おかげ頂き、きらんなら、ちょっと、おかしか、今の椛目で、おかげ頂き、きらんなら、「そら」おかげ頂ききよらん人が悪か、くり返し言うておりました。
 これだけの事を分からさして頂きよるじゃないかと、それを行じないのは、お前達が悪いのだ、と言うことなんです。行じろうと行じまいと、言う事は、行じればですネ。
 そこからですネ。お話を頂いたお話ではなくてです。
 そこから、翻然とした、ものがでかけてくるのです。
 「あ-」先生がおっしゃっておった。本当の答えが、ここの所だったと言う所が開けてくるのです。
 開けてくるということは、小さい田がです、少しずつでも、大きくなる事だと言うことです。
 開けるたんびに開けてくるのです。一反から二反、二反から三反、10俵とれよったのが、三反とれよったのが30俵とれるということ、おかげの場も、だから話を聞くと言うことはですね、「あ-」なるほど、なるほど、こうわからして頂くことと言うこと、話しを聞けばネ。
 「だから」話を聞いたことを行の上に表わしていかなければダメなんです。
 例えて言うならばですよ。金銭なら金銭が、自分のものではないと話しを聞けば、すぐわかるのです。
 なるほどこの自分の体であって自分の体でないなあ。
 なるほど、神様が御作り下さったんだなぁと。そんなら、これの御作り下さったその神様にその作り主の下さった神様に信心してもろうたほうが、一番いいと言うことは、わかるのです。
 ところが、信心はしてもらえないでしょうが、病気は治らないでしょうが神様が、金銭は、神様の御物だからと、わかっただけでは、かぎりなし、金銭のおくり合わせは頂けないでしょうが、この体が神様、言うなら、神様がぁ-。御作り下さった、この体であるとか、金銭なら金銭一切が神様の御物であると言う事が翻然として悟れたとき金銭の不自由をすることないでしょう。
 健康の上にもおかげを頂けるでしょう。わかっていて、分かって居ない、それは、行じないからです。
 だから、言うな行じていくと言うことがむつかしと、言うならむつかしいのです。自分の金の事、ま-だ自分の体の事を思っている。「これ」ではいつまでたっても、本当のおかげがおかげを生んでいく様なおかげにはならんネ。
 信心が育っていくと言うことはです。分からしてもろうた「それを」行じさしてもろうた、翻然として開けてきた、翻然として開けてきた、小さい田が、だんだん一反が二反、二反が三反に大きくなっていくと言うこともこれが信心が育って行きよるとです。
 自分に信心しとりますからと言って、育ってなければ、なにもなりません。肥やしになっていると、言うただけでは、なーにもなりません。皆さん、ここにもう一つどうでしょうかネ。健康の上にも金銭の上にでもおかげ一切何も人間関係の上でもそうなんですけど、ただ一番初めに、私が申しました様になんとはなしに、難儀というほどしのことでもない問題と言うほどしの事でもないけれども、ちょっと、こう心にかかったり「まあ」不安に思う様な事がある。
 神様にお願いさして頂いたら「言うな」「言うな」とおっしゃるそれを、くちなしの実をもって教えて下さったから。
 「はあ-」これは言うちゃいけんばいなぁ-。黙っておけば、よかばいなぁ-と思うてもここなんとはなしに、ひかかって、ここ10日間ばかり過ごして来た。
 まだ心の中にひかかっておる、から今朝その事をちょっと御願いさして頂きよったら白いくちなしの花を頂いた。「あ-」神様が梔の実を頂いた。
 今日は、梔の花を頂いた神様が「言うな」「言うな」とこう言って下さる。「あ-」言わんでも、梔の花が咲くと言うことだなぁ。言わんでおっても、おかげは開けるなぁ。おかげは頂けると言う事だなぁと思う時に、これはもうスッキリしてくる。
 スッキリする事が、おかげになる。だからスッキリすることが悟ると思ったら大間違いです。これだったら、かげで皆さんがみんな頂いているでしょうが。そこんところを悟ろうと思たって金銭の事でも、健康の事でも、それで自分が悟り開いた様に悟りを、開くと言う事は、「もう」かぎりのないおかげに繋がっていなくてはダメ。 もう、それは、自分のもの、信心があろうも、無くてもネ、そこで、「なるほど」と合点さして頂く「あ-」そうだなぁとこれが、おかげうけられないはずだなぁと言う事を改めたり、それを行じたり、して行くうちにです。翻然と分からさして頂くもの、それが悟りである。
 それが、自分の田が大きくなっていくのである。信心が育つと言うのは、そうゆう事なのだ、信心が育つとは、信心が分かって、いきよると、分かっていきよるだけでは、いっちょん、育ってきよるのでありませんです。
10俵とれよったのが、20俵、20俵とれよったのが、30俵頂けるようにならなければ、私は信心が育っていきよるとは言えないと思う。
 皆さん椛目でです。今申しました様な事が心の中に何か迷っておる事がネ、スッキリしたと、心の中におかげを頂いたと、スッキリしたら、こうゆう、おかげを頂いたと、言う様なおかげで椛目の信心をありがたいと言うているのでは、まだ、まだ、本当の事ではない。大切だ、買わして頂くでも、頂くでも、神様の御都合ちやこうゆう御都合がある、なるほど、なんした事でもお取次を頂かないけんな、お伺いをさして頂いて、頂いてからせんな、いけんなぁと言う事になる。だから、そうゆう程度の事を、お伺い頂いておることでありがたいと言う様な事では、おしいじゃないかと、そうゆう事を、教えて頂くのであるから、それを自分のものに本当に、自分のものにするために、それを行の上に表していって、そっから、翻然として、開けてくるもの。それが、いよいよ自分のものになるのである。
 こんならば、おかげが、おかげになっていく所の、かぎりのない、おかげになって「さあ」いくらかぎりのない、かぎりのないおかげをいっぱい頂いたからと言って「さあ」いくらかぎりのないおかげの場を頂いたからと言ったっちゃ「ネ-」ほうからかすのじゃダメですよ。「ネ-」
 悟りが開けたけんもう、ほうからかしていいと言うもんではない。「もう」それで修行せんでいいと言うことではない。そこには、次、次と、喜びの喜びがほしいなら、喜びの実を種をまいていかなければもちろんなりませんよ。草をとらなければ、いけませんよ。
 そこに信心は、限りがなく修行は、一生と言われる、所なんです。けれどもですネ。
 所謂、田地田畑が自分のものになっていくと言う楽しみです。悟るとは、そうゆうものだと、私は思います。
 「ネ-」それが自分のものになっていくおかげをうけないけんです。
 あたしは、椛目の人はそれをちょっと誤解しておるように思うのですね。
 一番初めに申しました様な事が、次、次、おかげを頂いておりますと、それが、いかにも自分のものになったごと思っておるのです。色々な問題が直面した時には、そして自分が本当のものになっていないからスッキリ、イヤ、同じ所をいつまでもぐるぐる回っておると言う事「ネ-」どうでも、こうでも、本気でわたくしが頂いております。ことを行の上に表していくとこんなことでは、おかげは受けられないと言う事を気付かせて頂いたら、肝心として改まっていくと言う姿勢ネ、そうゆう信心態度が必要じゃないかと思います。 昭和39年12月6日  朝の御理解を終わります。